日、かつてベストセラーになった「絶対音感」(最相葉月著)を読み直していて、あの世界的に有名な作曲家にして指揮者、L.バーンスタイン(ミュージカル“ウエストサイド物語”の指揮など)の「音楽って何?」と題する言葉に出会った。孫引きの上、我田引水めくので恐縮だが、ちょっと引用してみたい。「…大切なのはこのリズムが僕たちを興奮させ、ワクワクさせてくれること。…ワクワクするのは、ワクワクさせるように音楽が書かれているから。…みんなだって何かが自分に起こったとき、踊ったり歌ったりして、自分の気持ちを表現してみたくなることってあるでしょう?絶対あるよね。作曲家にもあるんです。…音楽の意味っていうのは、これなんです。シャープとかフラットとか和音とか、むずかしいことをたくさんわかる必要はないんです。もし、音楽が何かを私たちにいおうとしているなら、その何かというのは物語でも絵でもなく、心なんです。もし音楽を聴いて、私たちの心の中に変化が起こるなら、音楽が私たちにもたらすいろいろな豊かな感情を感じることができるなら、みんなは音楽がわかったことになるのです。音楽とはそれなんです。物語や題名はそれに付随したもの。そして、音楽が素晴らしい点はみんなにいろいろな違った感情をもたらすことができること。それには限界なんてないんです。…音楽は音符の動きです。忘れてならないのは、音楽は動いているということ。たえずどこかへ動き続けます。音符から音符へ飛んで、変化して流れていきます。そしてそれが、何百万という言葉でもいい尽くせない心を伝える方法なんですね」
(p240~242)
私自身、音楽はそのようなものとずっと考え、その考えに基づき自分のホームページを作ってきた。が、内心いつもどこかで忸怩たるものがあった。今月、これを読んで心底救われた。今までの姿勢を貫いてよろしいとこの天下の指揮者にお墨付きを貰った気分になった。もう一度要約すれば、①専門知識より心、②いろいろな感じ方があっていい、③音楽は動いているもの、④言葉では言い尽くせない心、この四要件になる。
相当以前の話だが、うちでクラシックファンが集まってクラシック音楽について語り合ったことがある。この機会にそのことについても少し触れておきたい。
まずこんな質問が出た。クラシックはどこで聴くものか。A君「ロックなどはからだ全体で聞く。演歌などは胸で聴く。クラシックは頭で聴くものと考えられがち」B君「クラシック愛好者も最初は胸で感動していたが、知識が増えるにつれ頭で聴く傾向が出てきた。クラシックには教養主義的、形而上学的色彩が濃く、俗化させたくない意識がある」B君「よって<超技巧…>などと一般受けしない表現が多い。「英雄」などの副題があると大分違う」中西「マニアックな人たちの話題にはついていけない」
次の質問。本当にクラシックファンは少ないのか。C君「隠れたファンはいるにはいるが自らファンと名乗ることは少ない。何かのキッカケでそれが判明する。次。クラシックはどうして近づきにくいのか。B,Dの両君「今は視覚偏重の時代。視覚に訴えられないものは受けない。聴覚だけでは物足りない」E、B君「今はインスタントな時代。ちょいちょいといいところだけをつまみ食いする時代。長々と半時間、一時間と聴く辛抱がない」中西「今はラフな時代。姿勢を崩さず、咳一つせず、静かに居座る苦痛に耐えられない」次。クラシックの質は。D君「クラシックは20世紀前半までに作曲されたもので作曲者の顔が見えない。親近性がない。舞台の演奏家と聴衆の間に一体感がない。舞台と客席の間の物理的、心理的距離が問題」B君「楽譜に忠実に演奏することが求められるものゆえ、創造性に乏しい」など。
前号でも書いたが、人それぞれに好きな音楽を聴けばよい。それが心を打つものであればジャンルを問うことはない。しかし今あらためて思うに、他のジャンルの音楽を聴いて、今のようなコメントが書けるだろうかと。むしろクラシックだからこそ書けているような気もする。それほど強くクラシックは私の心を打っているのかも知れない。
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(2004.2)