学社地遠の友(学友・社友・地友・遠友)

生まれてはじめて意識した友は実家の隣に住んでいたKちゃん、文字通り竹馬の友だった。物心ついた頃から小、中学校までともに暮らし、渾名で呼び合う仲だったが、いつしか音信不通になってしまった。いつまで経っても幼友達はいいものだ。あの頃のことばで一言声を掛ければ時間を超えて昔が戻ってくる。心の湖底に沈んだ堆積物がその一言で掻き回され、懐かしい日々がよみがえってくるからだろう。

 この幼い日から大学までともに学びともに遊んだ友、学友は朝の友、会社に入り定年まで苦楽をともにした友、社友は昼の友、定年以後、ともに好きなことをして支え合った友、地友は夕方の友、そして今、われわれ夫婦の音楽会社に集う遠来の友、遠友は晩の友である。
 朝は希望。朝6時半に目を覚ました児童が7時には小学校に、8時には中学校に、8時半には高校に、そして9時には大学に進んだイメージだ。まだ寝とぼけていた小、中学校、目覚めてきた高校、この頃の友が今一番懐かしい。目覚めながら互いに精神的背骨を作った思春期だった。大学ではもう違う背骨をもった友が多くいた。こうして22歳までともに過ごした学友は(友)情に富み、意(欲)に溢れていた。かれらはその後どんな昼を送り、今どんな晩を送っているのだろう。
 昼は夢中。新入社員として働きはじめた10時、仕事に慣れた12時、働き盛りの1時2時、疲れはじめた3時、頭が回らなくなった4時、この間を夢中に過ごしてきた。そこで出会った友はやはり学友とは違っていた。みな、はじめから覚醒した違う背骨をもった大人ばかりだった。組織という名の檻の中はとかく窮屈でじめじめもしていた。目的達成のためには知(恵)と意(志)が尊重され、ときに情は捨てなければならなかった。そんな中で切磋琢磨する社友は逞しい同志だったが、そのうちに疲れも出てきた。学友が情・意だったのに対し、社友は知・意、総じて社友が学友よりドライに見えたのはその所為だろう。その社友はかつてどんな朝を送り、そして今、どんな晩を送っているのだろう。
 夕方は残照。一般に会社人間は、定年後は淋しいものだ。今までのように四六時中ともに過ごせる友はいないし、4時から新たな友を作ることは至難であり億劫でもある。趣味の合う趣友がいても地理的に離れていてはそうそう会えない。
私の場合、ここに登場してきたのが同じ地に住み、仲良くしてきた地友である。4時からの友といえる。同じ新興の地に住む“好きなこと仲間”だ。“村のミニコミ誌会”“漢詩の会”“混成コーラス”“絵画同好会”“有志のカラオケ会”“書道同好会”“異文化研究同好会”の仲間で、女性、男性、壮年、熟年、初老、現役、リタイア、出身も職歴も区々の、まことにおもしろい多士済々だった。彼らとは情が通じ、知が共有できた。かれらの午前や午後はどうだったのだろう。
 定年後引っ越した湘南国際村は湘南の富士山の見える景勝の地で、高い丘の上に立つ村は開発したてで真新しく、住民も新入村者ばかり、他の地域から自然条件的に隔離され、戸数も少なく、それだけに同朋意識が湧く。定年後、あるいは定年直前に引っ越してきた村人は多分にロマンティストで、言わず語らずの粒揃いだった。
 互いに知らない地でこれから助け合い、支え合って生きて行くためにできた同好会では、他人事に田舎のように詮索も介入もせず、といって都会のように冷たく、我関せずでもなく程よい家族ぐるみの新地縁関係が続いた。この地友は知(的)で情に厚い友であった。
 色んな分野で、酸いも甘いも噛みしめてきた4時からの友は和紙のように美しい。お互い何のしがらみもない。その話に耳を傾けると深く味わいのある余韻が響き、彼らの、私の知らない朝や昼まで想像させてくれた。4時から知る別世界、これらを開陳してくれる貴重な地友こそ稀有な癒しの友だった。が、晩になる前にかれらと別れを告げた。
 地友関係は2013年まで続いたが、喜寿を迎えた私は突然里心がつき同年、関西芦屋に引っ越した。晩年にふさわしい晩の始まりだ。
 晩は寡黙。芦屋ではわれわれ夫婦が建てた音楽ホールに外国勢も含めて遠来の客が集い始めたが、昨年来のコロナ禍でそれも叶わないところとなった。デジタル時代とあってメル友やフェースブック友が増えた上、ZOOMとやらでズームアップはしているものの半人半ロボの感じは否めない。かれらを純然たる意味で友と呼ぶには抵抗がある。距離的に年齢的に心理的に皮膚的に遠い存在の友だからだ。かれらの過ごしている一日にはもはや関心が薄れた。しかし、晩の友は晩年にふさわしく、濃厚でない、あっさりした知情意レスの友の方が似合うのかも知れない。