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所感

イヴ・アンリの演奏を聴いて   9月12,13日連日、わが愛するピアニストのイヴ・アンリがジョイントリサイタルのとりを勤め12日はシューマンを、13日はドビュッシー、フォーレ、ラヴェルを弾いてくれた。1981年のシューマン国際コンクールで第1位を取り、2016には同コンクールの審査員を勤めた彼はシューマン第一人者だ。 彼の演奏はピアノを弾いているというより、ピアノに向かって頭を下げ、ピアノと二人で、ピアノ語で曲の心を語らっているように映った。われわれの人と話す言葉に自然な抑揚があるように、ピアノに向かってピアノ語で話す彼の口調(手調)にも自然で繊細な抑揚があった。出だしの話しぶりが丸くやわらかで光輝いていたし、静かなトーンで話すシューマンはしんみりとして哀調を含んでいた。私はそこに薄紫色をしたpaleな味を感じた。 13日のドビュッシー、フォーレ、ラヴェルにもその曲にふさわしい感情がこもっていた。ドビュッシーの前奏曲集の「音と香は夕暮れの大気に漂う」は表題どおり軽快な音のグラデーションがきれいで夕焼け空を眺めている風情があった。 同じピアノを弾いてもアンリと日本人の音は質的に違うように私には思えた。アンリの音が、たとえば草書とすると日本人の音は楷書か行書に聴こえる。何故だろう。そんなことを考えながら飽かず彼の演奏に耳を傾けていた。      

2023.07.04 Gala Concert

今年初の夏日、外は暑いが西宮芸術文化センター小ホールはひんやりとして気持ちがいい。 今日は昼夜続けてガラ・コンサートとアンサンブルの夕べを楽しんだ。筆者のように超高齢になっても老若男女の皆さんと一緒になって音楽を楽しめるのは実に有難い。 ホールの一番後ろでカメラ番をしながら文字通り音(の響き)を楽しんだ。ステージから客席を上ってくる音、音、音。弦あり管あり鍵盤あり。それらが渋く甘く揃い微妙に縺れ合う様はカンディンスキー描く抽象画を見る思いがした。例外は長崎県出身の中村卓士君のピアノソロ、日本の高校からウイーンやパリの音楽院に留学、昨年イタリアのプッチーニフェスティバルに出演した逸材、聞かすショパンやリストの演奏だった。

2023.07.02 ペーター・ヴェヒターヴァイオリンリサイタル

7月2日、14:00からペーター・ヴェヒターヴァイオリンリサイタルがsalon classicでありました。今日のレビューは観客のお一人から戴いたものです。当日は朝から素晴らしいお天気で、ホールに入り切らないほどの超満員のお客様でした。 元ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団第二ヴァイオリン首席奏者のペーター・ヴェヒター氏と大阪音楽大学教授でピアニスト土井緑氏による素晴らしい演奏でJ.S.バッハ、パルティータから始まり、ベートーヴェン、ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」、シューマン、ヴァイオリン・ソナタ第Ⅰ番作品105など圧巻の演奏で、あっという間に時間が過ぎ、名残惜しい気持ちになりました。が、鳴りやまないアンコールに応え3曲も演奏してくださり、アンコール曲をペーター氏が述べる度、周囲から歓喜の声が飛び交い、私も含め、来られた方々皆様、本当に素敵な演奏の余韻に浸っておられました。

春分の日コンサートレビュー

昨日(2023.03.21)は私が主役の「絵と音楽のマリアージュ=美の境地」春分の日コンサートを開きました。きわめてユニークな展覧会でありコンサートでした。私が描いた絵をホールの壁中に飾り、私が解説するたび、ヴァイオリニストの黒田小百合さんとピアニストの霜浦陽子さんが、その絵に因んだ演奏をしてくれました。こんな趣旨の私の挨拶で始まりました。 「皆様、こんにちは。本日はようこそ。今日は春分の日でございます。今日は今年一年で一番の強運日で、天が赦す日、天赦日とか、一粒が万倍になる、一粒万倍日といって「何ごとを始めるにももっともいい日です。そして明日は私の87歳の誕生日、そんな日に私の人生ソナタの第4楽章、フィナーレを奏で始め、皆様にその証人となって頂けることは真に光栄なことです。振り返りますと、第1楽章は学生時代、第2楽章は社会人(組織人)時代、第3楽章は趣味人(自由人)時代でした。今日から始まるフィナーレはそれらを超越して歓喜と余韻に満ちた第九でありたいと思います。」

生まれた年、月、日、時を四つの柱として人の運勢を占う四柱推命は私にとって興味以上のものである。これをある種、科学以上のものとして私は捉えている。四柱推命のややこしい理論は横に置くとして、その背景となっている宇宙の営みに私は目を見張る。「胎児の世界」(中公文庫)の著者、三木成夫は、p184で、森羅万象を貫くリズムの本質を明らかにし、どんな生物の食と性の営みも年・月・日のリズムと厳密に結びついていると述べている。同じ軌道を循環しているように見える月や太陽も年とともに位置を変え、同じ定点に一時として留まらない。人の一生もこの軌道に影響されるものらしい。  人には宿命と運命がある。宿命は生まれながらにもつ性質や運勢、運命は運ぶ命、巡りあわせとなる吉凶禍福の運勢である。どの定点で生まれたかで宿命が決まり、これからどのような軌道をめぐるかで運命が決まるという法則だろう。 私の宿命はどの書を紐どいても大体同じで、私の性質の要約はこんな具合である。  「日からの判断…研究や学問の分野で力を発揮。カンが鋭く、観察力や分析力が高い。地道にコツコツ努力する。好き嫌いが激しく、協調性はあまりないが、大きなやさしさを秘めている。潔癖で少し独善的なところがある。月からの判断…宝石のキラメキが水の流れを輝かせる絵となり、品格があり、知的な人物。対人面ですこしチグハグなところがある。しかし物腰が柔らかく穏やかで人から好かれる。少し見栄を張るところがある。毒舌家の面もある。押しが弱く、二番手に徹することが多い、…」このように言われるともうほとんど信じたくもなる。なぜ、ここまで私の生年月日(時間は普通分からないことが多いため、実質は三柱推命)だけで解るのか。 次に私に運命を見てみよう。□を書いて、上を北、下を南、右を東、左を西とする。そして一辺を3等分すると、□が12等分される。つまり十二支の12となる。北の真ん中を(子、ね)とし、右周りに(丑、うし)、(寅、とら)(卯、う)…とし、最後に(亥、い)を(子、ね)の左隣にすると輪が一巡する。このそれぞれを10年とすると完全に一巡するのに120年がかかることになる。 私は三月生まれ、つまり(卯、う)月の生まれは右辺の真ん中、そこからグルっと右廻りする(ある計算式で左周りもある)。私が(卯、う)を離れて(辰、たつ)になるのは5歳の時(ある計算式で算出したもの。人により違う。)以後10年刻みで、15歳で東から南へ折れ、25歳、35歳、45歳と進み、西へ折れ、55歳、65歳、75歳と進み、北へ折れ、今真ん中の85歳にいる。今後、長生きすれば95歳となり、東に折れ、105歳、115歳、となって元の5歳に重なることになる。一辺が30年だが、その方向が変わる時が大変化、同じ辺内の刻みでは小変化が訪れるという。  人それぞれの特有星がこの軌道を回るとき、人それぞれに、その特有の運命が訪れる。 星は木、火、土、金、水の5種があり、そのそれぞれに陰陽二つがあり全部で10種類となる。これが干支(十干十二支)の干に当たる。私の星は水の陰で、この星が悪い運勢を辿り始めるのは南から西に折れる45歳から。とくに45歳から55歳が最悪、それから徐々に回復、これが北に折れる75歳からの30年間は幸運に変わるとある。思い返せば私が四柱推命を知ったのは50歳過ぎ、ニューヨークから帰国した直後だった。男にとって一番大切な管理職時代(45歳~55歳)に一番くさっていた。その時にこの運勢を知り、「なるほど、今が最悪なのは定めなんだ。これから徐々に悪条件を脱し、60歳の定年から上向き、北に方向転換する75歳からは大いに希望が持てる」と思ったものだった。 これが予想通りというか占い通りになったのだから驚きも驚き、もう私はこの四柱推命を疑えない。とくに今、85歳になってそれが顕著になった。占いは陰暦がベースなので今回の自費出版もはじめから2月以降と定めていた。この出版でまた新たな人生が始まりそうだし、今日からThe Music Center Japan のホームページも装いを新たにした。この節目に当たりこのようなエッセーを記念に認めた。 今や私にとって四柱推命は迷信でもなければ当たるも八卦、当たらぬも八卦的存在ではない。人生一生の確かな道しるべとして神妙に考える術である。

生まれてはじめて意識した友は実家の隣に住んでいたKちゃん、文字通り竹馬の友だった。物心ついた頃から小、中学校までともに暮らし、渾名で呼び合う仲だったが、いつしか音信不通になってしまった。いつまで経っても幼友達はいいものだ。あの頃のことばで一言声を掛ければ時間を超えて昔が戻ってくる。心の湖底に沈んだ堆積物がその一言で掻き回され、懐かしい日々がよみがえってくるからだろう。  この幼い日から大学までともに学びともに遊んだ友、学友は朝の友、会社に入り定年まで苦楽をともにした友、社友は昼の友、定年以後、ともに好きなことをして支え合った友、地友は夕方の友、そして今、われわれ夫婦の音楽会社に集う遠来の友、遠友は晩の友である。  朝は希望。朝6時半に目を覚ました児童が7時には小学校に、8時には中学校に、8時半には高校に、そして9時には大学に進んだイメージだ。まだ寝とぼけていた小、中学校、目覚めてきた高校、この頃の友が今一番懐かしい。目覚めながら互いに精神的背骨を作った思春期だった。大学ではもう違う背骨をもった友が多くいた。こうして22歳までともに過ごした学友は(友)情に富み、意(欲)に溢れていた。かれらはその後どんな昼を送り、今どんな晩を送っているのだろう。  昼は夢中。新入社員として働きはじめた10時、仕事に慣れた12時、働き盛りの1時2時、疲れはじめた3時、頭が回らなくなった4時、この間を夢中に過ごしてきた。そこで出会った友はやはり学友とは違っていた。みな、はじめから覚醒した違う背骨をもった大人ばかりだった。組織という名の檻の中はとかく窮屈でじめじめもしていた。目的達成のためには知(恵)と意(志)が尊重され、ときに情は捨てなければならなかった。そんな中で切磋琢磨する社友は逞しい同志だったが、そのうちに疲れも出てきた。学友が情・意だったのに対し、社友は知・意、総じて社友が学友よりドライに見えたのはその所為だろう。その社友はかつてどんな朝を送り、そして今、どんな晩を送っているのだろう。  夕方は残照。一般に会社人間は、定年後は淋しいものだ。今までのように四六時中ともに過ごせる友はいないし、4時から新たな友を作ることは至難であり億劫でもある。趣味の合う趣友がいても地理的に離れていてはそうそう会えない。 私の場合、ここに登場してきたのが同じ地に住み、仲良くしてきた地友である。4時からの友といえる。同じ新興の地に住む“好きなこと仲間”だ。“村のミニコミ誌会”“漢詩の会”“混成コーラス”“絵画同好会”“有志のカラオケ会”“書道同好会”“異文化研究同好会”の仲間で、女性、男性、壮年、熟年、初老、現役、リタイア、出身も職歴も区々の、まことにおもしろい多士済々だった。彼らとは情が通じ、知が共有できた。かれらの午前や午後はどうだったのだろう。  定年後引っ越した湘南国際村は湘南の富士山の見える景勝の地で、高い丘の上に立つ村は開発したてで真新しく、住民も新入村者ばかり、他の地域から自然条件的に隔離され、戸数も少なく、それだけに同朋意識が湧く。定年後、あるいは定年直前に引っ越してきた村人は多分にロマンティストで、言わず語らずの粒揃いだった。  互いに知らない地でこれから助け合い、支え合って生きて行くためにできた同好会では、他人事に田舎のように詮索も介入もせず、といって都会のように冷たく、我関せずでもなく程よい家族ぐるみの新地縁関係が続いた。この地友は知(的)で情に厚い友であった。  色んな分野で、酸いも甘いも噛みしめてきた4時からの友は和紙のように美しい。お互い何のしがらみもない。その話に耳を傾けると深く味わいのある余韻が響き、彼らの、私の知らない朝や昼まで想像させてくれた。4時から知る別世界、これらを開陳してくれる貴重な地友こそ稀有な癒しの友だった。が、晩になる前にかれらと別れを告げた。  地友関係は2013年まで続いたが、喜寿を迎えた私は突然里心がつき同年、関西芦屋に引っ越した。晩年にふさわしい晩の始まりだ。  晩は寡黙。芦屋ではわれわれ夫婦が建てた音楽ホールに外国勢も含めて遠来の客が集い始めたが、昨年来のコロナ禍でそれも叶わないところとなった。デジタル時代とあってメル友やフェースブック友が増えた上、ZOOMとやらでズームアップはしているものの半人半ロボの感じは否めない。かれらを純然たる意味で友と呼ぶには抵抗がある。距離的に年齢的に心理的に皮膚的に遠い存在の友だからだ。かれらの過ごしている一日にはもはや関心が薄れた。しかし、晩の友は晩年にふさわしく、濃厚でない、あっさりした知情意レスの友の方が似合うのかも知れない。

齢と脳 齢も80を過ぎると、いよいよ「自分らしさ」を追求したくなる。One and onlyの世界である。 人間には二つとして同じ顔がないように人はみなそもそも唯一無二なものだが、生き方をベースに考えると、そこには類型があり、必ずしも唯一無二とは言い難い。今日も世界陸上の模様をテレビで観戦していて、勝負を争う選手の生き方に相違があるとは思えなかった。 それでは、人がその人らしく、他人と違った生き方をしているとはどういうことか。それはその人の脳に刻まれた痕跡、形跡が他人のそれと違っていることだ。 人は生まれ落ちた瞬間からそれ以来、休むことなくどの瞬間も脳を使わずに生きてはおられない。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、人の言動は生後から現今まですべて脳の支配するところであり、その形跡は記憶され、よく使う脳の部位はよく発達し、強化され、使わない部位は未発達のままで残る。 私は人をざっくりと動詞型、名詞型、形容詞型の三種類に分類する。動詞型は行動派、名詞型は知性派、形容詞型は感性派で、だれでもこれらのすべての要素を大なり小なり持ち合わせているが、とくにその人の目立った部分で色分けしている。動詞型の典型はスポーツマン、名詞型のそれは学者、研究者、形容詞型のそれは芸術家といった具合である。 人がどうして今の職業についたか、それはその人の脳に訊けば解る。幼少の頃からの色々な生活体験が脳に刻まれており、それが得手ないし無難と思われた職業を選ばせたのである。そしてその職業に付くことにより、いよいよその方面の脳部位が発達し強化された。反面、少しも使わない部位は未発達のまま残された。 ここで私の場合を取り上げてみる。明らかに形容詞型である。 私の幼少時を辿ると同居していた祖父が表具師だったため物心ついたときから書画骨董を身近で無意識ながら見てきた。無意識ではあるがそれにより私の視覚神経部位が幼少の割には発達していたかも知れない。それがいうところの三つ子の魂となり、発芽となってそれ以後どの年齢においても美術に対する関心はあり、それが強まり今日に至って絵を描いている。 また父が私の幼少の頃からこれからは英語が大切と説いたことから英語好きになり、学生時代を通じ、また社会人になってからも英語を鍛えたが、それらはすべて私の言語中枢を発達させ強化させた。 美術や英語が好きになったのはこのような次第である。 そこに新しく加わったのが音楽である。 結婚するまで私の生活環境に特段、音楽に言及するほどのことはなかった。これまた脳のよく知るところで、この聴覚神経が発達していたとは到底思われない。 しかし、妻が音楽に特化した女性だったため、次第に音楽に目覚めた。しかし、それは三十歳半ばからで、運動神経が未発達な私に、運動神経のいる楽器を扱うことは不向きと断じ、できるのは音楽鑑賞だった。とくに定年前後からはクラシック音楽を中心に聴いてきた。自前で音楽ホールを作ったこともあり、このホールや他の場所で催したコンサートも今や500回以上を数え、常に演奏家の生の音に接してきた。これが私の聴覚神経を異常に発達させたことは間違いない。 話が少し元に戻るが、私の英語好きの特長は、リスニングにある。51歳から始めたアメリカ国内放送の聴き取りである。まだ聴き取れたとは言い難い。が、間違いなくその聴覚開発途上にあり、これからが楽しみな領域に入った。 世の中には美術の専門家も音楽の専門家も英語の専門家も沢山いる。その人たちにとって、それはその専門領域であり、たやすく他人が追随できるところではない。英語の場合は少し違う。ことは読み書きではなくリスニングである。中でも米国の国内放送が聞けるリスニングである。例外はあるとしても帰国子女でなければできる技ではないと思う。 80を回った私の「自分らしさ」をいよいよ磨いて行くためには、以上の三つ、絵描き、クラシック音楽鑑賞、英語リスニングの総合である。音楽の聴覚野と英語の聴覚野、これらは脳部位でも近くに居合わせ何らかの相互作用があるはずである。また絵画の視覚野も音楽の聴覚野と視聴覚として底辺で繋がっているかも知れない。 これからの脳活性化が精神的、肉体的若さ保持の秘訣である。 (2017.8.9)

今日、私は至って元気に七十九歳の誕生日を迎えた。もう一年すると八十台に突入することになる。七十台の最後を送る今、どのような気持ちでいるか、後日のために書き残しておかなければならない。後期高齢者入りしてからもあっという間に四年が過ぎた。が、いまだ一向に齢が行ったという自覚がない。それどころか一時に比べて若返った、元気になったというのが、強がりでなくて本当のところだ。七十歳の古希を迎えた頃から時々、徒然なるままに年寄りになっていく心境をエッセーとして綴ってきたが、それらを今読み返してみても、その頃の方が今よりも年寄り臭かったと断言できる。  定年の六十二歳から今の七十九歳までの越し方を少し振り返ってみよう。現役の頃は仕事や人間関係のストレスで疲れ、フランス語でいうセラヴィー(これが人生か)といささか諦めの境地にあったが、定年でそれらから解放され、引っ越した湘南国際村の新地で自分でも気付かなかった未知の自分に遭遇したのが六十四、五。その頃から妻の企画するクラシック音楽の素人評論をし、生まれて初めて絵筆を握って油絵を描き、五行歌なる詩歌を作り、徒然なるままにエッセーまで書くというビジネスマン転じてアーティストもどきの生活を送るようになった。  精神的に充実してくると、肉体的にも張りがあり何の衰えも感じなかったので、七十歳のときには「古希通過展」と称して絵画、五行歌、音楽評論、エッセー集の個展まで開いた。七十二、三からは欲が出てそれらに加えて書もやり出し、新たな境地を味わった。定年から十年が経ち、俗世から離れた好々爺の心境になっていた。当時、音楽関係で海外に旅することも度々、元気そのものだった。  「健全な精神に健全な身体は従う」と当時受け止めていたが、七十三歳と数か月した時、定年後初めて健康診断を受けたら前立腺ガンの疑いがあることが判り、京都で二か月間入院するはめになってしまった。しかし、幸い大事に至らず全治するほどに回復したが、時あたかも後期高齢者入りの頃で髪の毛は薄くなり、少し疲れ気味の様相が出てきた。  退院したのが2011年の暮、明けた翌年正月頃からどうしたわけか家で食べる料理が何もかも美味しい。妻に訊くと最近、料理はすべて水素水でやっているという。なるほどその水がものを言ったのだ。野菜も米も最近は農薬や防腐剤漬け、つまり酸化しているわけで、それが水素水で還元されてきれいになっていたからだった。酸化とはサビのこと。水素水で還元すれば、サビがとれて文字通り、元に還るわけだ。そう合点した私は、私のこのサビた身体も水素水を飲めば、きっとサビがとれるだろうと思い、この三年間飲み続けた結果、まさしく若返ったのだ。薄くなっていた髪の毛はまた生えてきたし、顔艶はよくなったし、ツルツルだった足の脛にまた長い毛が生えてきて正直驚いた。  もう一つ、いいことがある。それは、チタン、ゲルマニウム、カーボン、シリコンなどの素材からできた「枕」を首の所にあてがいながら毎晩眠ると肩が一切凝らなくなったことだ。昔はよく肩を凝らしたもので、読書好きだが歳が行くに従い長く読み続けると目がショボショボして肩が凝る。そうなると疲れて元気がなくなったが、今ではいくら本を読んでも、パソコンしても翌朝すっきり目覚めて一日中疲れ知らずの元気さで日々暮らしている。  チタンやゲルマニウムは体内の電流を調整することにより、その熱で凝った筋肉をホグし、カーボンは炭で、炭が放射する波動エネルギーで血行をよくし、シリコンは大量のマイナスイオンを帯びた物質だから、そのマイナスイオンであらゆる代謝を助けるという。石原裕次郎の「錆びたナイフ」ではないが、私の錆びた身体も水素水でまたピカピカに光り、このような物質素材で脳みその切れ味も少しはよくなっていると思っている。ここに来て私の思いは逆転した。やはり「健全な身体に健全な魂は宿る」ものだと。  水素水は海馬にもよく効きアルツハイマー病の治療に使われているとも聞く。この関連で私の最近の体験を述べてみよう。それはNPR(National Public Radioの略。アメリカ国内放送の一つ)の聴き取り感度が非常によくなってきたことだ。五十歳を回ってから海外放送の英語を一から聴くような奇妙なことに挑戦し出したのは日本広しといえども私ぐらいかも知れない。最初の十年間の体験を「私の英語遍歴」にまとめて定年時に自費出版したが、正直その出版時点ではまだまだ放送内容が聴けたものではなかった。  しかし、ここにきて放送内容が英語というより意味として、要旨として七割程度理解し始めたと思うことだ。ここまで来た以上、あと一年、八十歳の傘寿の時点で八割五分ぐらいにはもっていきたいものだ。  音声医学専門のアルフレッド・トマティス博士が、「四十歳を過ぎたらバイリンガルになるのは昔から不可能というが、それは根拠のない説、九十歳まで可能だ」と言っているが、私はそれを自分で証明したいと思っている。  そのためにも今後も水素水と枕は欠かせない。歳が行くに従い衰えるのは当たり前、病気するのもやむを得ない、これは自然の道理、そうかってに思って人生を諦めたくない。コーカサス地方の百歳のようにそれまで元気に生きて十日間でコロリと行くようなお年寄りに私もなりたい。 (水素は元素の中で一番小さく、一番軽いものである。したがって容器から少し時間が経てば、みな抜けて逃げていく。私の愛用している水素水や水素蒸気はその場で精製したものだからよく効くものと思われる。)(2015.3.22)